質疑応答から

 

(4月7日の桜)

 

[質問者]

教えて頂きたいことがあります。

確か聖杯探求とは父親探しの旅でもあったと思うのですが、この父親とはどのような意味があるのでしょうか?

 

 

ガラハッドには父親ランスロットがおり、そのランスロットを超えたということが=古いパターンの破壊者(Hanged Man)であるなら、ガラハッドは自分で自分の本質を発見したということになると思うのですが、父親とは“自分の本質”ということだったのでしょうか?

 

ご教授下さいますよう、どうぞよろしくお願い致します。

 

 

[レオン]

「聖杯探求とは父親探しの旅」とは、私がどういう場面であなたに話したのか分かりませんが、「アーサー王物語」の主人公たちは、ほとんどが父親無しか、父親がいても父親の手から離されて育てられ、教育されます。

ガラハッドもパーシヴァルも、アーサーもマーリンも、すべてそうです。

しかも母親が育てた場合には、母から離れるか、母を捨てて旅立ちます。

 

この場合、母とは「地」の象徴であり、求める父は肉体の父のことではなく、「天」の象徴です。

 

母は「生活の心配や目先の欲得」の象徴であり、父はそれらの断片化した心の状態を超えた、全体的な存在の仕方、あらゆるものの分離化を超えたユニティを意味します。

その父の持つ実際的な力が「聖杯」です。

 

 

また、あなたがおっしゃられていることの中に、

 

ガラハッドは自分で自分の本質を発見したということになると思うのですが、父親とは“自分の本質”ということだったのでしょうか?

 

という理解がありますが、「父親とは“自分の本質”」という考え方は、グノーシス主義者たちの考え方です。

グノーシス主義者たちは 2000 年という歳月を使いながら、人間の存在様式を変容できませんでした。

タロットでの探求は、別の道をたどります。

 

私たちは“自分の本質”を見失っているので、れを探すのではなく、心というガラスが破壊されているので、それを溶かして、再生するのです。

 

 

または別な言い方をすれば、魂が死んでしまっているので、それに生命を吹き込んで復活させるのです。そして、それは死んだわれわれにできることではないので、「タロットの霊Full」にやってもらいます。

それを発見するのがタロットレッスンです。

 

タロットは理論的に学ぶのではなく、レッスンしないと体得できず、生命が吹き込まれないのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつ、どこで、変容体験は起こるのですか?

 

 

ジョン・ミルトン『楽園喪失』より

 

おお、聖なる光よ、天の初子(ういご)よ、汝の上に栄あらんことを!

それとも、もし支障(さまたげ)なければ、永遠者と等しく永遠なる光よ、と呼ぶことを許し給え! 

神は光でいまし、人のおろかに近づき難き光にのみ永遠(とこしえ)より住み、したがってまた汝のうちに住み給うがゆえに、――おお、汝、造られざる本質より出でたる輝けるものよ! 

それとも、人間の知りえざる源より発する天来の清冽なる流れと呼ばれることを、汝は好むのであろうか?

実に太陽よりも先に、この蒼穹(おおぞら)よりも先に、汝は存在し、神の御声を聞き、あの空々獏々たる「無限」よりかちとられ、新しく出現した暗く深き滄溟(わだつみ)を、あたかも外衣(マントル)をもって覆うように、上から尽く覆ったことであった! 

私は、長い間あの暗澹たる場所に逗留(とうりゅう)を余儀なくされていたが、今ようやく地獄の池から脱れ出て、前にもまして大胆にもわが翼の力をかりて汝を再び訪れようとしている。

いや果ての、また、中途の暗黒のただ中を飛び翔ける間も、私は、オルペウスの竪琴に合わせる調べとはおよそ異なる

調べをもって、「混沌」と「永劫の夜」について歌ってきた。

 

 

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 ジョン・ミルトン『楽園喪失』の第三巻、初めの方に出てくる最も美しいくだりの1部である。

   完全な盲目になったミルトンが、転落したサタンが天界に向かって苦悩するのを詠むことによって、自分が盲目になった暗黒の世界をサタンの地獄の苦しみになぞらえながら、再び天界を仰ぎ見て上昇して行く。

 

 この「生か、死か」の心理的な狭間(はざま)こそ、「タロットの霊」が到来する重要な、心の「こちら側の状態」なのである。そして更に重要なことは、その心境の中で、「ここで、《タロットの霊》に出合う以外にはない」、と魔術の志願者が心に決めることである。

 

「私は、どうしてもここで《タロットの霊》に出合う」、と決める。

そして、その「ここ」とは、自分が出会えた「真理の証言者の前で」である。私に与えられた真理の証人の前に、「全てを投げ出して関わる」のである。

 

 「存在の変容」は自分では起こせぬし、自分で体験することは出来ないが、そこで、何もかも投げ出して本当に決心するならば、すぐにか、ずっと先にか、『絶対他者(タロットの霊)』は必ず向こうからやって来る。

 

 

by freepik

 

 #19.The Sun は、人間が太陽から光を受け取るのではなく、人間自身が太陽になるという変化である。だから、それが「変容」なのである。

   太陽はコスモスの中心である人間の内にあるべきであり、人間自身が本来世界の太陽たるべきで、万物はその周囲を回るべきであろう。ロゴスである太陽は、人間自身の内に輝くべきである。

 

  #20.The Aeon と「DisksのAce」は、太陽が人間の内に生まれる象徴である。内部の光である。世界はこの光を中心に巡るのである。本来なら全世界が人間と彼の地球の周りを回り、人間の内に生きるロゴスを通して、光を受け取るべきであろう。黙示録の「日を着たる女」の形象こそは、人間の内へ太陽が帰還する形象である(#11.Lust)。

 

   フールと Magus の結合こそ、われわれのパスワーキングの目的である。

 

   生まれながらの人間の心は、言葉でできているが、それはロゴス(キリスト)でできているようにならなければならない。それが「存在の変容」である。

 

  心がロゴスによって形成されていること。それが内陣魔術師である。

 

 

レオン•サリラの雑感より

 

 

 

 

 

 

 

私の「生の探求の立場」ほか

(「層雲」2代目代表、内島北朗 作)

 

レオン•サリラ

 

「ヨハネによる福音書」は、次のような書き出しで始まる。

 

“初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。”

 

というものである。

 

すでに3つの「共観福音書」が存在していたにも拘らず、それから30年以上が経過しながら、ヨハネのグループはなぜ「新しい福音書」を編纂しなければならなかったのだろうか?

それは、「共観福音書」では神の探求が不十分か、重大な欠落(または欠陥)があると認識していたからに 違いない。

 

「ヨハネ福音書」の書き出しは、生の探求としての神の探求が、言葉を通して行うことが最も適切であることを主張している。そしてヨハネの時代、言葉とは「旧約聖書」以外には存在しないのである。

 

ヨハネとは異なる時代に生きている私にとって、この「生の究極の探求」としての「言葉」は、「ヨハネ福音書に現れたイエス」と、「魔術師のタロット」としての言葉、そして同人「層雲」が追求した「自由律俳句」の学びと創作を通して探求することだと捉えている。この三者の融合点の実践に、私の現代における「究極的なるものの探求」が位置づけられているのである。

 

 

by freepikより

 

「層雲自由律俳句」の巨頭の1人、種田山頭火は、代表的な句集「草木塔」の最初の書き出しの項で、このように記している;

“大正15年4月、解すべくもない惑いを背負いながら、行乞流転の旅に出た”と。

 

そして熊本の山あいを旅しながら、次のように詩う。

 

ーー分け入っても分け入っても青い山

 

解すべくもない惑いは、旅をしても旅をしても、心の中に青い山が続くように晴れては来てくれないことを詠んでいる。

 

また、

ーーしとどに濡れてこれは道しるべの石

 

と詠む。

 

ところどころの足元に見えてくる「道しるべの石」も、彼の「心の惑いの悲しみ」を表して「濡れている」のであろう。この「道しるべ」も、山頭火の「解すべくもない惑い」を脱ぎ去って、新たな境地に達する道しるべにはなってくれない。

 

そして、

ーー炎天をいただいて乞い歩く

 

と詠む。

 

行乞の厳しさは苛烈な炎天の中を這うように進むばかりだが、しかし彼はそこに仏の慈悲が存在することを信じて、ただ乞い歩くのである。

 

そして、「旅から旅へ」道を求めて遍歴しながら、10年後の昭和9年秋、遂に彼は「存在の世界」の境地にたどり着く。

 

“私はようやく「存在の世界」にかえって来て、帰家穏坐とでも言いたい心地がする。私は長い間さ迷っていた。体がさ迷っていたばかりでなく、心もさ迷っていた。在るべきものに苦しみ、在らずにはいないものに悩まされていた。そしてようやくにして、在るものに落ち着くことができた。そこに私自身を見出したのである。

   在るべきものも在らずにはいないものすべてが、在るものの中に蔵されている。在るものを知るとき、すべてを知るのである。私は在るべきものを捨てようとするのではない、在らずにはいないものから逃れようとするのではない。

   「存在の世界」を再認識して再出発したい私の心構えである。

   うたうものの第一義は、うたうことそのことでなければならない。私は詩として私自身を表現しなければならない。それこそ私のつとめであり、同時に私のねがいである。”

 

と、山頭火は語るのである。

 

 

 

★久しぶりに旧書を再読する

  

   年が明けて、間もなく1ヶ月が経過いたしますね。早いものです。

そんな状況を考えた、これは私個人の、ここ1両日の感慨です。

 

レオン•サリラ

 

   ニコライ・ベルジャーエフの「霊の国とカイザルの国」を再読した。
もう何十年ぶりかの再読だったが、目を通して見ると、また目を開かれることが多くあった。

 

   キリスト教においては、神秘とは神との合一にいたる霊の道程(パスワーキング)である。ところが宗教では、霊的体験が客観化され、集団化され、組織化されている。
   それに対して「魔術的タロット」と神秘主義とは、聖なる恩恵を深淵から、すなわち人間における神的要素の根源そのものから与えられる啓示だと考える。

 

   ベルジャーエフによれば、「神秘主義」は、「主体と客体の対立を超越し、客観の力に屈従しない霊的体験」と定義される。この神秘主義の捉え方は重要である。こんにちのわれわれは、さまざまな社会的・経済的矛盾を抱えながらも、かつてのような今日・明日の衣食住には追い詰められてはいない。年金やガンへの心配も、将来を見越しての不安、恐怖である。
   かつてのわれわれは、明日の食事にありつけない恐怖を抱き、肺結核に対しては今日から寄り付けない恐怖を抱えていたのである。つまり、こんにちの恐怖や不安は、思考、イメージの産物である。

 

   今日・明日にさし迫る不安や恐怖でないにもかかわらず、それに怯え、対処できなくさせ、不満と事件を毎日のように誘発させているのは、われわれに霊的創造力が欠乏しているからではなかろうか。

 

   キリストは、人間を神に結びつける絆を体現していたのであり、受肉したイエスが存在しない今は、人格的な聖霊の発見が、こんにちそれに結びつく道である。
それはもはや旧来のキリスト教によって実現するものではなく、新しい霊的な時代の創造が求められている現代には、新たな探求の形態が必要であるに違いない。私は、われわれが実践する「魔術師のタロット」は、それに対する明確な答えの1つだと思っているのである。
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